divider

separator


【クマタチの教室】真ん中はからっぽ。僕らは、はじっこ。

/ 0 Comments /

どもども。

 

健太です

 

 

お久しぶりですね。

 

最近のニュースと言えば、Food Safety Managerという州公認の資格を取得しました。日本で言うと、食品衛生管理者のような資格です。本格的なコーヒーショップを運営するには、州に店を承認してもらわなくてはならず、そのためにはこの資格を持っている人が1人必要なので、僕が取ることになりました。オンラインでコースを受講し、いざ試験を受けるために試験会場を予約しようとしたら、なんと一番近い試験会場がマサチューセッツの僻地にあr、プロビデンスから電車で3時間の場所… 仕方なく往復6時間を掛けて1時間弱のテストを受けに行き、無事合格しました。これでやっと州に正式な店として承認してもらうための申請ができます。胸を張って「生徒運営ですが立派なコーヒーショップです」と言えるまであともう少しです。

 

 

さてさて。

 

新企画「クマタチの教室」第二弾のテーマは「日本人ってなんだろう」

相変わらず週の終盤で滑り込み投稿です。

 

僕自身は生まれも育ちも東京なので、日本で生活していた頃には気づかなかったことですが、案外「日本人」を定義するのは難しいもの。もちろん国籍の有無で書面上は日本人かどうかを判断できますが、実際の人となりとしての日本人をどう定義するかはとても難しいような気がします。

 

では国籍以外で、「日本人」を定義する方法はあるのか。ここで真っ先に思いつくのは、言語や文化的習慣からのアプローチです。敬語を使う日本語の言語的な特徴、そこから派生する日本独特の礼儀作法・おもてなしなどの文化。端的には、それらを無意識の内に自然と使いこなす人を日本人と定義することもできるでしょう。

 

と、このままではここで考察が終わってしまうので、あえてもう少し深層部に踏み入ってみようと思います。日本人・日本文化の深層に辿りつく為に、僕が今回道標にしたのは2冊の本と、ブラウンで履修したとある授業。

 

  • 「中空構造日本の深層」河合隼雄

  • 「日本辺境論」内田樹

  • Japan’s Pacific War: 1937-1945

 

それぞれ順に見ていきましょう。

 


~「中空構造日本の深層」河合隼雄 ~

 

日本を代表する心理学者でもある河合隼雄の著書で、日本人の心の深層を解明する上で、古事記などの神話を着想に、「日本の本質とは中空構造にあるのではないか」という大胆な議論を展開しています。心理学者であった河合隼雄は、患者の臨床例を見ていく中で、西洋の精神医学理論が日本人の患者に当てはまらないことがあることに気づきます。そして「日本人と西洋人の精神構造は違うのではないか」という仮説に辿り着きます。そして様々な文献を読み、日本神話に仮説を立証するためのヒントを得たのです。

 

神話に登場する難しい名前を省いて、簡単に説明すると、「中心的な存在として登場する神様が、登場以後は無為に扱われている場合が多い」というのが、河合の気づきでした。中心的な存在であるにも関わらず、ほとんど記述がないことに疑問を持った河合は、この「登場しない隠れた神様」が、互いに相対する二項対立的な2人の神様の間で、密かにその間を取り持ち、緩衝地帯的な役割を果たしているではないかと推測します。もっと簡単に言えば、対立する間を取り持っている隠れた仲裁役とでも言えるかもしれません。そして河合はこの推測を基に、「日本神話は中空構造を持って成り立っているのではないか」と推理しました。

 

Processed with VSCO with c1 preset

 

以前ブログでも紹介した松岡正剛さんが、千夜千冊で本書を取り上げた時に触れたように、実は中空構造は日本文化の至る所に存在しています。例えば日本の神社の中心には、魂箱なるものがある場合がありますが、その中は空っぽだったりします。また鏡を置く神社も有り、この場合も中心には神が存在せず、物事を反射させているだけなのです。

 

その後河合は更に推論を発展させ、「日本文化の特徴は、中心となるものが隠されており、その“見えない存在” が、実は左右のバランスを取りながら、社会全体を機能させている」という仮説に辿り着くのです。

この仮説をよく覚えておいて下さい。

 


~「日本辺境論」内田樹 ~

 

次に取り上げるのは、新書大賞を受賞した内田樹の「日本辺境論」という本です。本書は日本国家、文化、社会を「辺境」という概念を用いて考察しています。内田の著書の多くがそうであるように、本書は攻撃的で批判的な考察を含んでいますし、ところどころ暴論とも言えるような議論が展開されていますが、思考の触媒としては、素晴らしい本です。

 

img_7788-copy

 

「辺境」とは簡単に言えば「はじっこ」の事。他国との比較でしか自国を語れない国家としての特質や、後発者として先行者を追うことには長けているが、先行者の立場から他社を引っ張ることが苦手である日本人の国民性を指摘し、「日本人は辺境人である」と議論を展開します。そして内田は日本人が世界標準的な何かを作り出すことが出来ないのは、メッセージに意味や有用性が不足しているからではなく、「保証人」を外部の上位者につい求めてしまうからであると論じます。この後、日本人の学び、機の思想、日本語の辺境的な特性と議論は進んでいきますが、この企画のテーマである「日本人」を理解する上で本書から得られる重要な示唆は、「日本人が辺境人であるとすれば、自分自身の存在や主張を他者との比較に置いてしか語ることができず、その正しさも他者に保証されていなくては妥当性が確保できない」という仮説です。

 


~Japan’s Pacific War: 1937-1945~

 

そして最後に前述の2冊の仮説を踏まえて、最後に紹介したいのが、僕が昨年の秋に履修したJapan’s Pacific War: 1937-1945という授業です。これはアメリカ人の教授が、日本の視点に立って太平洋戦争に考察する授業で、太平洋戦争の発端から戦後の復興までを時系列で紐解くことで、「なぜ日本は戦争に踏み切り、あのような結果に至ったのか」について考えるのが目的でした。様々な文献や映像資料などを通して、政府・軍高官の意思決定の経緯、国民の心境を分析する中で、僕は河合と内田の仮説が、図らずとも実証されていることに気づきました。

 

1469583898077
(Photo)

戦時中の日本における中空構造

ドイツがヒトラーという独裁的で絶対的なリーダーを中心に意思決定をしたのとは対照的に、日本の戦時中の意思決定機関には絶対的なリーダーが存在しませんでした。もちろん天皇は象徴的に意思決定の最高責任者でしたが、意思決定の根拠となる理論や思想を持ち込んだのは政府・軍高官であり、この日本のブレインとも呼べる役職の人は戦時中代わる代わる交代していきました。終戦から70年がたった今も、戦争責任がどこにあるのかを明確に断言できないことが、河合が提言した中心が空っぽである中空構造に起因していることは容易に推測できます。(余談ですが、今年話題になったシン・ゴジラは中空構造を皮肉っぽく描いていましたね)

 

0944dae5(Photo)

大東亜共栄圏を生んだ辺境人として思想

また大東亜共栄圏の思想や、それを基にした戦時中プロバガンダ映画には、内田の提言する「辺境人としての日本人の思想」が色濃く現れています。西洋諸国の植民地からアジアの国々を開放することを掲げた大東亜共栄圏の思想はあくまで、西洋諸国という明確な先行者が存在したから成立したのでしょうし、内田が辺境人的思想として挙げた「状況を変化させる主導的な働きはつねに外から到来し、私たちはつねに受動者であるという自己認識」を発端として生まれています。

 


 

ここまで河合の中空構造と内田の辺境論を紹介し、これらを使って太平洋戦争を考察しました。これだけを見ると、「日本文化の中心部は空っぽで、日本人は他者と比較することでしか自己を定義できない端っこの民族」のような、とってもネガティブなイメージが浮かぶかもしれません。しかし、河合の中空構造と内田の辺境論もポジティブに捉えることが可能です。

 

河合の中空構造論では、「中心となるものが隠されており、その“見えない存在” が、実は左右のバランスを取りながら、社会全体を機能させている」としていました。これは裏を返すと、「対立する2つの勢力が存在する社会を機能させるには、“見えない存在” がバランスをとる必要がある」と捉えることができます。つまり、絶対的なリーダー達の間にファシリテーターが必要で、日本人はそれに適しているかもしれないのです。

 

また著書内で内田は辺境であることは決して悪いことではないと言っています。辺境であることを否定し、非辺境的な国に成り代わろうとして「ふつうの国」になるよりは、辺境であることを追求する方が良いのではないかと説いているのです。後発者としてしての劣等感は、他者から学ぶことに貪欲であることの証です。とても抽象的な考えにはなりますが、あらゆる中心的な思想にとっての辺境の位置は、それら主流の思想の丁度中間に当たり、ある意味中心なのかもしれません。

 

まとめると、

日本の文化・社会構造は中空構造の基に成り立っていて、そこに属する日本人は、辺境人としての意識から他者との比較を通して自己を定義する傾向にある。そんな日本人は、見えない存在として、異なる文化・人種の間でバランスを保ち、辺境を追求することで、あらゆる中心的な思想の中間でグローバル社会を機能させる役目を担うことを目指すべきである。

となるでしょうか。

もちろんここで言う「日本人」は象徴的な意味での「日本人」なので、全員が全員ファシリテーターになる必要はないと思います。ただ日本人で上記のような役割に向いている人は多いのかもしれません。

 

 

さて、ここまで長々と考察してきましたが、肝心の僕自身の話をしようと思います。

 

もともとの性格からすると、僕は誰かの間に立って中間的な役割を担うようなタイプではありませんでしたし、かといってチームの先頭に立って、誰かを引っ張るタイプでもありませんでした。どちらかというと、好き勝手に一人で好きなことをやるタイプだったような気がします。

 

img_1590-copy

 

そんな自分の立ち位置が大きく変化したのは、カナダに留学してからだと思います。80カ国以上の国から集まっている周りの友達は、それぞれ強烈な個性を持っていて、誰も間に立とうしないので、必然的にその中では比較的に冷静に物事を俯瞰することが出来た自分が、人の間に立つことが多くなりました。

 

良いことなのか悪いことなのかは分かりませんが、僕は白黒はっきりした意見を持つタイプではありません。「ベジタリアンは正義だ!」なんて思いませんし、「リベラルこそ正しい、保守なんてクソくらえ」なんて思いません。2つに意見が分かれる事柄を議論する時に、どちらか一方に完全に同意することは、ほとんど無いです。どちらかと言うと、言い方は悪くなりますが、それぞれの立場で自分の言うことが絶対正しいと思う人たちの間に立って、時々茶々いれる方が楽しいと感じてしまいます。絶対正しいと言える意見を持てないという点では、ある意味僕はとても日本人的だと思います。

 

endo20nakamura201(Photo)

 

そして人の間に立つようになることが増えると同時に、チームでなにかプロジェクトをすることになると、先頭立つより、目立つ人を自分の前に置いて、自分自身はその人の影で物事を密かに進めるのを好むようになりました。(マニアックな例えかもしれませんが、サッカーで言えば、中村俊輔では無く、遠藤保仁的な立ち位置です笑)

 

こうしてあらゆる国の人と接する中で(ここでも他者との比較ですね)、自分は個性的で対立する人同士の間を取り持ったり、チームのナンバー2的なポジションで密かに物事を前にすすめることに向いてることに気づいたのです。そういう意味では、留学してからのほうが「日本人らしく」なったかもしれません。

 

一応ここで他のブラ熊メンバーの思う、僕の日本人っぽいところを見てみましょう。

 

  • きっと褒められたいんだろうなぁ、っていうような自慢をちょろっと言うところが男子高校生っぽい
  • 丁寧なところ
  • ツッコミ好き
  • 独特なオーラを持っていて、”日本人らしい”というかケンタは”ケンタらしい”。しいて言えば、こだわりがあって丁寧なところ
  • 何かどんな質問してもシッカリした答えが返ってくるところ。
  • 勤勉
  • 趣味や、空き時間の使い方

 

一つ目のよくわからないキアからの苦情は無視しますが、それにしても他のメンバーのコメントも、果たして日本人っぽさなのかよくわからないコメントですね笑

しいていえば、こだわりがあって丁寧なところは日本人っぽいのかもしれませんが、「何かどんな質問してもシッカリした答えが返ってくるところ。」ってもはや日本人じゃなくても成立しますしね笑

 

とまあ、締まりが悪いですが、こんな感じでどうでしょうか?

 

皆さんの意見もまだまだ受け付けています。是非こちらから投稿して下さい。

インスタグラムも始まったので、是非見てみてあげて下さい。アカウント名はburakuma_brownです。

 

それではまた来週!

^*^*^*^*^*^*^*^*^*^*^*^*^*^*^*^*^*^*^

クリックお願いします!


separator

No comments so far!

separator

Leave a Comment


separator