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お知らせと心情報告。

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小高です。
まず。お知らせから。
10年間のアメリカ生活を終える節目として、
そして学生を終え社会人になるこの機に、
東京で個展を開くことになりました。
6月27日(月)から、7月2日(土)まで。
毎日11時から19時迄、最終日は17時迄です。
場所は、ギャルリー志門にて。東銀座駅から約2分、銀座駅から約5分のところにあります。
ここ2年ほど描き続けている模様の絵から、今年一年かけて制作した本、電信柱/電線の写真、高校時代に制作したものまで。様々な作品を展示する予定です。
初日の6月27日には、17時から20時まで、オープニングレセプションも行います!!
お時間がある方は、ぜひいらしてくださいぃいい!
Facebookページはこちら: https://www.facebook.com/events/196281974099619/

LetterFront

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留学生活には、沢山の節目があるような気がします。
入学、卒業、それだけではなく、一年が終わり進級する時、一学期が終わり一時帰国する時。何ヶ月に一度、必ずと言ってもいいほど訪れる、自分について振り返る瞬間。キッカケ。
日本とアメリカにいるのでは、接する人々も歩く街並みも全然違うもので。
それによって、身体の違う部分が刺激され、今まで気づかなかったこと、普段は気に留めてなかったものから、新しい物事への考え方を生み出したりする。新しく手にしたカメラのファインダーから、世界を見ているような気分にさせられる。そうやって、また自分を見つめ直す。そんな感じ。

 

明日、卒業します。
ブラウン大学での4年間が、明日終わります。
アメリカでの10年間にわたる留学生活が、明日終わります。
部屋から少しずつ荷物が減っていって、
明日着るガウンをクローゼットの取っ手に準備してみて、
なんだか少しずつ実感が湧いてきました。夜の12時57分です。今。
来週が、最後の記事になります。
13334367_10157114713700438_2044555478_o因みに今日アンティークショップで買った1940年代のフィルムカメラ。

 

 

 

 

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私の建築論

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今学期、現代建築の授業をとった。
1960年代から今にかけて、建築家たちが持つ独自の「建築論」はどのように変化してきたのか。
今の建築界を担うフランク・ゲーリー、ザハ・ハディッドらがデザインする、曲線的でダイナミックな建築スタイルが、20世紀初期を代表する、合理的かつ幾何学的な近代建築からどのような影響を受けてきたのか。
アメリカ建築だけではなく、スイス、オランダ、フランス、日本、中国、メキシコ、などなど。とにかく世界中の建築物について学んだ5ヶ月だった。

・・・・・

 

自分の中で建築というフィールドは、多種のアートとは違う立ち位置に存在する。
建築について考える自分と、絵画・彫刻・版画・写真等の視覚芸術 (ビジュアルアート) と呼ばれる芸術ジャンルに対する考え方は少し異なる。
それは単純に、「誰の為に制作されるのか」の違いだと思う。
誰かへの贈り物として描く絵などは別として、ほとんどのビジュアルアートは「自分の為」に制作される。対して建築は、ただ美しいだけではなく、その創り上げられた建物と空間の中で生きる使用者への思いやりが必要だ。結局は「人々の為」に存在するものということだ。よって建築家は、その作品に、単なる自己表現の場として、いわば自己本位的な姿勢で向き合うのでは、真の意味での「良い建築」が生まれないと思う。その存在がどのような影響を人々に及ぼすのかを考える必要が、必ずにあると思う。

 

“Control and expressiveness. With all my art, I try to achieve just the right balance between the two. And it’s always the most difficult.”
先日アートをする友人が言っていたこと。
建築のみならず、全アートジャンルで共通して言えることだと思うけれど、
美術・建築史を勉強する者として、作品制作をする者として、私もいつも思うことだ。
建築で例えるとすれば、近代建築は”control” (理性、規則正しさ?) を、現代建築は”expressiveness” (感情、表現性?) を象徴するスタイルだと思う。こんなざっくり分類することは本当はできないのだけれど。笑
20世紀前半の、近代建築の3大巨匠の一人であるミースファンデルローエ。
彼の”Less is More”(より少ないことは、より豊かなこと)という言葉も、彼の鉄骨とガラスを主に使用して作られる角ばった建物も、近代主義の考えのベースになっている。シンプルで、形式的。装飾もなく、余計なものがないクリーンな建築。整然とした、理性的な感じ。”Control“だ。
そんな近代主義のあとに来るのが、現代建築という大きなくくりだ。
例えば、フランク・ゲーリーや、先日亡くなってしまったザハ・ハディッド。
彼らが造る作品の共通点は、ミースの作品にはない曲線的な形がベースとなって、シンプルというよりは、建築そのものが彫刻的。表現的というか、感情に溢れたものだ。こちらは”Expressive“。
 Screen Shot 2016-05-14 at 23.46.49左:フランクゲーリーのフォンダシオンルイヴィトン
右:ミースファンデルローエのファーンズワース邸
真っ直ぐ綺麗に伸びる線、バランスが取れた形、シンメトリー。
このようなものを人間の目は、必然的に「綺麗」と感じる。
でも逆に、数学的なルールのようなものに則って考えあげられた作品は、結果的にシンプルすぎて、人間さや温かみにかける。実際、近代建築は「機械的すぎる」「全部似たり寄ったり」とよく批判される。
それに対してゲーリーやハディッドの現代建築。
その形は整っているというよりは、混沌としている。とにかく存在感がすごい。
人間の感情の変化や、物事の儚さを物語っているよう。だけれど… その奇抜さの反面、使用者への思いやりが欠けていることも少なくはない。先日私が、クラスの期末プロジェクトとして模型を制作した藤本壮介の「HOUSE NA」という家は、床以外の建物すべてが透明ガラスでできている。ようは外から中が丸見え。彫刻的には面白いけれど、だからといってそこに住みたい!とは思わない。ゲーリーがパリに建築したルイヴィトン美術館も、噂によると雨漏りがひどいらしい。
・・・・・

 

 

思いやりがある建築。
美しい建築。
形式的な建築。
表現的な建築。
理性と、感情。
“Control”と”Expressiveness”。

 

建築と空は、似ているところがある。
どちらも、ひとつの物がひとつの場所に永久的に存在するもの。いつも動かずそこにあるものだ。
しかしそれを取り巻く環境、例えば光、温度、天気とかによって、容貌は変化する。
青い空の背景に、毎秒変わり続ける雲模様が流れていく。
部屋のカーペットにブラインドの影が映し出されたり、アスファルトに雨上がりの虹色の光が浮かび上がったり。
空も、建築も、そのような、瞬間的に消えてしまう美しさをとらえることができる。
デザインされた形が象徴する美しさだけでなく、このような”moment of surprise” (驚きの瞬間) を生み出す力がある建築こそが、人らしく、温かみのある空間なのではないか。それこそが、「美しい建築」であり同時に「思いやりのある建築」なのではないか。
元々小学生の時に、建築を学びたくて留学をしたいと言い始めてから、
なんとなくずっと続いている建築に対する想いが、ブラウンの授業を通して知った様々な建築家の著書や作品によってより一層深まった。そして、 自分なりの『建築論』というか、自分の中での「良い建築」「好きな建築」が明確になってきた。
改めて再確認された、自分にとっての学校の定義。
それは、知識を吸収し教養を身につけることだけではなく、今まで自分が物事に対して漠然と抱いてきた数々の考えを、あらゆる角度から見つめ直し、問い、取捨選択する場であること。
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IMG_2813

話は変わりますが、先日ボストンのジャズクラブで、The Manhattansのコンサートに行ってきました!
なんと活動54年目らしいです。最高でした。
“Shining Star”、”Kiss and Say Goodbye” など、名曲も聴けてめちゃくちゃいい夜をすごせました!

 

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”夢”

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“Paint a dreamscape”

(夢の風景を描け)

今週の美術の課題。

線画、静物画、人物画、色を使った絵と基礎的な美術の手法の学習から発展して、課題もどんどん自由になってきた。

 

うーん、”夢”か。最近見た夢を思い出してみる。

最近はなぜか夢にうなされていることが多い気がする。朝起きると思い出せないし、夢を見ている間も何でよくかわからないけど、何かに対して不満を抱いて怒っているというか、うなっている自分に気づく。掛け布団の向きが変わってたり、ベットから落ちていることも最近よくある。

意識があるようで、無意識な世界の”夢”。何か悩んでいることでもあるのだろうか?

 

DSC07991

先週キャンパスで見かけた車。政治的メッセージについてはいろいろ議論できるが、アートとしてはすばらしい。

 

“You’re shouting in Japanese”

(日本語で叫んでるよ)

高校のルームメイトに、私の寝言についてこう言われたことがある。

言われた時は驚いた。まずは自分がよく寝言を言っているということは、家では一人部屋だった私にとっては新しい発見だった。次にバイリンガルだけど、寝言は日本語なことなのと。そしてなによりも何か”言ってる”のではなく”叫んでる”らしいこと。そんなに大声で寝言を言ってるなんて、思わぬところでルームメイトたちに迷惑をかけていたなんて(笑)

このことを知ってから、自分でも寝言を言っていることに気がつくようになった。寝ている時って無意識なのに?と思うかもしれないが、”あ、今これ自分実際声に出して言ってるな”ってなぜかわかる。気づいたところで私は特に止める努力もせず、”今までもずっとそうだったみたいだし、まあいっか”と思って話し続けるのだが。そもそも、止めようと思ったところで止められるものなのだろうか?

 

夢って、自分でコントロールできないからとても不思議だ。何か頭の中にあることを夢見るのだろうから、何度も見たい夢の物語を想像しながら眠りに入ろうとしたことがあるが、思い通りの夢が見れたことは無い。気がつくと”眠っている間ぐらいは忘れたい”と思っていた今日の出来事や近づく締め切りのことなどを考えている自分がいて、いつの間にかなんか筋の通らない事柄を関連させた夢を見る。

学校の友達が、なぜか今いる旅行先にいて、外人の友達なのに日本語を話していて、現実ではお互い知らないはずの友達同士がとても仲良くて、みんなで謎の組織からよくわからない目的で逃げていたり、夢ってなんかめちゃくちゃだ。でもその非現実性がおもしろい。

”現実ではない”とわかっていても、どうしても現実だと信じてしまうこともある。例えば早起きしなくてはならない日、私はよく寝坊する夢を見る。とってもリアルで、目が覚めて時計を見て安心するのだが、もう一度寝ても寝坊する夢を見る。これを3回ぐらい繰り返す。それも毎回少しずつシナリオが違うから、”やばい、今度こそはマジで遅刻だ!”と思ってスリル満点というか、安心して眠れない。

逆に幸せな夢が現実味を帯びていると、起きてやっぱり夢だったことに気づくととても悲しくなる。夢が楽しすぎたせいで、一日中気が落ち込んだ日もあった。これは寝言を言う私に特徴的なことかもしれないが、時々、夢の中で(実際に寝言で言っているのだろうが)何度も誰かのことを呼びかけても振り向いてくれないことがある。”何でこんなに無視するの?”と思い始めた頃、眠りから覚めて”あ、そうか。だって本当は隣にいないんだもん。呼びかけに応える訳が無いよね。”と気づく。こういうことがあると、ほんと悲しい。

家に帰った夢とか、場所を移動したリアルな夢は、目を覚ますと一瞬”あれ、今自分どこにいるんだっけ?”と思ってしまう。夢って現実と非現実との境界が曖昧になって、不思議だ。

 

”夢”って一体何なんだろう?頭の中で考えていることなのだろうけど突然、忘れかけていた知り合いが夢に出てきたりもする。その人のことなんて考えてもいなかったのに。夢って何かを暗示しているのだろうか?それとも私たちの”無意識”が作る、自分の本心というか、根本的な何かを表しているのか?

 

”夢の風景を描く”

私が想像したのは、最近の夢にうなされる自分。暗い色の何かが、渦を巻くようにして中心で寝る私を取り囲む。でも夢って渦みたいに連続性が無い。むしろばらばらしていて、論理的に繋がらない。それに悪い夢ばかり見ている訳では無いし…。楽しい要素も何か私に不満を抱かせる要素もあるし、何かはっきりした形あるものがあるようでない。

ふーむ。これをどう表現しよう?

春休みにニューヨークでの美術鑑賞をしたからか、なんとなく点描画法を使ってみたいと思っていた。白く塗った板に、gel medium(媒体?)を使って重くしたアクリル絵の具で点を打っていく。

 

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週末の美術室。パソコンの画面を見るのに疲れたからちょっと美術の課題をやりに行こう、という思いのはずが、気がつくと5時間経っている。正直言って、授業の課題できっとクラスメートにしか見られない、終わったら捨ててしまうような作品に何でこんな時間をかけるのだろう?と思ってしまう。でも作っていて楽しい。自分はやっぱり美術が好きなんだなって、こういうとき改めて感じる。本当は舞台の上で輝くような、人前で何か披露することができるようになりたいけど、自分にはこうやって作品を通して表現するほうが向いているのだろうか?なんか地味に思えて、それに自分に大した才能があると思えないけど、やっぱり好きなものは好きなんだなって思う。

 

完成した作品はこちら。

DSC08029copy

上下左右も始まりも終わりも無く、いろんな要素が交じり合って、何かを形作るようでそうでなくて。

 

みなさんにはどう見えますでしょうか?

そして、あなたの”夢の風景”はどんな風景ですか?

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美術館の在り方

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お久しぶりです、小高です。
春休み中はブログを書けず、というのも10日間ほど北欧旅行へ行っておりました。
ストックホルム、ヘルシンキ、コペンハーゲン。
これでもか、というほどの量のサーモンとトナカイの肉を食べて参りました。もう魚はこりごりでござんす。嘘です。お寿司が食べたいです。
「北欧で見た全てのものがかののことを連想させたのよねぇ、オホホ」と、ある日北欧旅行から帰ってきた友人が言っていたことがあって。
私自身も、雑貨や家具、建築など、北欧デザインはタイプのものが多く、「学生最後の休みだし、いってみよージャマイカ!」ということでいくことにしました。滞在中は、とにかくアート三昧でした。美術館、教会、気になっていた現代建築物、美術館、雑貨屋さん、美術館、美術館。
それそれ訪れた場所を写真付きで紹介したいところなのですが、ひとつひとつ書くのはちと面倒なので、それはやめます。ごめんちゃい。
この旅行を通して、気づいたことは結構あったと思います。
私はやっぱりこういう作品が好きだなぁ、とか
今度こんな絵を描いたら面白いかも、とか
あの人この彫刻好きそう!送ってあげよ〜、とか
なんだか色々独り言に溢れた時間でしたが、とっても有意義で。
やっぱり、沢山の好きなアートに直接触れることができる機会って、日常にはあんまりない。
ネットや美術史の教科書に載っている作品の写真を見るのも十分ワクワクワクワクワクワクワクワクするのですが、『本物』のパワーってやっぱり全然違いますね。
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IMG_7256

 

美術館はただの “アートを鑑賞する場” ではない、と私は思います。
展覧会に行って自分の作品へのインスピレーションをもらうことは沢山あります。でもそれ以上に、大好きなものたちに囲まれながらその静かな空間の中に居る、ということ自体、心休まる瞬間のような気がします。美術館に行くことは刺激的なことでもあり、そして同時にメディテーションの機会でもある。洗練された、ある意味とても神聖な空気感。与えてくれる沢山の発見や学び。周囲に人が居ながら自分だけの時間が過ごせる自由と安心感。
美術が人々にとって、もっと日常的なものになってくれれば、と願うことはあまりないのですが、
美術館がもっと、誰もが気軽に足を運べる場所であったらなあ、と思うことは時々あるもので。
でもだからと言って、日常的になりすぎて、美術館の空気感みたいなものを大切にしない人々が増えてしまったら、それはあまり好ましくないし。
だからきっと、「日常」と「非日常」の絶妙なバランスを保たなくてはいけないんだろうなぁ、と思います。

今回の北欧旅行で訪れた美術館は沢山ありましたが、特に印象に残っている美術館はふたつ。
ストックホルムのアーティペラグ美術館と、コペンハーゲンのルイジアナ近代美術館。
どちらも街の中心部から少し離れていて、海に沿った膨大な敷地内に、彫刻庭園や散歩道や数え切れない数の展示室がある、という感じ。わお!一日中そこに居れるくらい、やることが沢山あります。だからこそ、家族連れからお年寄りまで老若男女が行きたいと思える場所になるんでしょう。

東京やニューヨークなどの大都市にある美術館は、このような街から離れた美術館に比べると、スケールが小さい。ひとつひとつの作品の間隔もベリースモール。それによって来館者も、ひとつひとつの作品をじっくり眺めるというより、ひとつの部屋に飾られている複数の作品をささーっと見る。的な。流れる〜川の流れのように〜。

 

IMG_7201大好きジャコメッティ。あぁ、じゃこご飯が食べたいナ。

 

このふたつの美術館を含めた旅行中に訪れたすべての北欧の美術館には、
今まで私が訪れたことのある美術施設と異なる点がありました。
それは、「ここにせっかく来てくれたんだから、楽しい時間を過ごして帰って欲しい」という美術館側の姿勢(ちなみに私は猫背です)。
それが色々な細部から見て取れました。
展示場に入る時、普通なら、最初に目に入ってくるものは、その展覧会のタイトルと説明文。
でも北欧の美術館はそうじゃなくって、まずスツール?というかポータブルの小さい椅子?が入り口に置いてあります。その椅子を手に取って好きな作品を見つけたらその前に座ってじっと眺められるように。という粋な計らい。素敵ね。
先日の記事にも書きましたが、視覚文化の現代社会を生きる私たちは、ひとつのものをじっくり見る、観察する、そして考える、ということをあまり日常的にしなくなってしまったような気がします。
しかし入り口に椅子を置いておくということだけで、来場者がこれから出会うであろう沢山のアート作品と、どうやって向き合うのか、この美術館という空間の中でどういう時間を自分は過ごしたいのか、ふと、考えさせてくれる。

 

ヘルシンキで訪れたHAM(ヘルシンキアートミュージアム)。
そこの展示場に入る前の部屋には、ひとつの工夫が施されていました。
一番最初の展示場の中心部に数え切れない量のメモが並べてあって、そこには、
「急いでませんか?5から10の数字をひとつ選んでください。急いでいればいるほど大きい数字を選んでください。たとえば、5を選んだとしたら、5つの作品につき、1つだけ立ち止まって観てみてください。」
「あなたの皮膚にタトゥーを入れるなら、どのアート作品を選びますか?」
「肖像画を描いてもらうなら、どのアーティストに頼みますか?」
などなど。フム、面白い。
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何も考えずにふらふらとアートの空間を楽しむということもありだと私は思いますが、
こうやって、今まで自分に問いかけたことのなかったような質問が頭の片隅にあることで、美術館での体験が少し変わる。
目の前にある、たとえば一枚の絵画との楽しみ方がもっともっと増えていくんじゃないかなって。私は思います。
「日常」と「非日常」の絶妙なバランス。
先程書いた私が思う美術館の理想の形を今回の北欧旅行を通して再確認した次第でございます。
ちなみに私の日本にあるおすすめ美術館は、静岡県にある「クレマチスの丘」。
ではでは、来週また。

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Are we really looking?

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ある日、ボストンにて。
電車を降りて駅を後にし、横断歩道の信号が変わるのを待っている時のこと。確か、20人くらいだったかな。小学6年生くらいの東洋人の団体が綺麗な二列になって、私と同様、信号待ちをしていた。彼女たちを見ているとなぜか微笑んでしまう。日本人かな?なんかちょっと日本人っぽいな。修学旅行かな。
声が聞こえた。
「なんだか、アメリカ!!って感じ。」「こんな綺麗な教会、日本にあるのかな。」
やっぱり日本人だった。なんだか少し嬉しくなった。12歳くらいの子達が、アメリカに来て、ボストンに来て、楽しそうにしている。目を輝かせて360度街中を見渡し続けている。
10年前、自分が初めてボストンに降り立った時も、こんな顔をしていたのかな?いつまでも続く煉瓦作りの歩道と、必要以上に大ごとっぽく装飾がされた建物を見て。馴染みのある街並みとはまるで異なる、はじめましての街の姿に、ただただ驚き、感動していたのだろう。彼女たちみたいに。

 

慣れることって、怖い。
いつも、気づいたときにはもう遅い。「非日常的」だったものが時を経て「日常的」なものへと形を変えてしまっている。自分が知らないところで。どんどん「普通」が増えて、逆に「特別」の存在感というか、それから受ける刺激も増す。不思議だなぁと思いながらも、しょうがないか、とも思うもので。

 

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先日、History and methods of art Historical interpretationという授業中に、1950年代に放送されていた洗濯機のCMを見ました。当時の人気女優が大きな洗濯機の左側に立って、カメラに向かってひたすらその洗濯機の高性能について語り続けるというもの。撮影しているカメラアングルは固定されていて、30秒のCMが一つのカットで撮られています。
21世紀の今、私たちがテレビやネットで見るCMとは、まるで異なるものです。
様々な角度から撮影され、複数のカットが組み合わさった映像。洗濯機の性能を説明するアニメーションや、カラフルなロゴが入ったもの。
もし今、1950年代の洗濯機のCMをテレビで見たとしたら、私達は何を思うのでしょう?
つまらない。古臭い。もっと詳しいものが作れないのか。そんなところでしょうか。
Screen Shot 2016-03-19 at 03.50.07
Screen Shot 2016-03-19 at 03.52.22上:Harriet Nelson in 1950s Commercial for Hotpoint Laundry
下:3篇 西島秀俊 CM パナソニック「20. 洗濯機」「21. 冷蔵庫」「22. エアコン」

 

現代は、視覚文化とも言われています。
アニメ、漫画、同人誌、コンピュータゲーム、CG、造形等、視覚に訴える文化。
著しいテクノロジーの進化によって、私達はインターネットやテレビ、スマートフォンなどの電子機器を使って、色々なメディアにアクセスすることができます。数え切れない量の写真や画像、ニュース、その他の情報が世の中を飛び交っている。知らない事は、あっという間に調べることができる。
1950年を生きる人々と比べると、私達はより多くの情報を短い時間で吸収することができるらしいです。しかしその一方で、得た情報を短期間で忘れてしまいます。
溢れかえるほどの情報量は、日々頭の中で塗り替えられてゆく。
人々の「物を見る目」は、60年前とは似ても似つかぬものになりました。

 

 

“People don’t actually look at things anymore. We only glance.”
そう教授は言う。

 

 

 

当初、芸術家にとって、この変化は恐ろしいことだった様で。
美術館に訪れる人々は、作品をじっと「見る」ことによって、何かを感じたり考えたり。そこから生まれる彼らの反応によって、その作品の価値が決まってきました。
しかし今、美術館に行くと、世界中から収集された何十、時には何百という作品一つ一つを、全て丁寧に見て回る人々があまり居ない。正直、私もその1人です。第一印象でピンときた作品を見つけた時は立ち止まってじっと見たり、作品名とアーティストをメモしたり、撮影可の場合はは写真に残したり。でも、興味が湧かない作品に時間を割くことはあまりしない。 以前よりずっと簡単に、作品は海を渡って様々な場所で展示されます。美術館で出会った作品も、カメラロールを開けばすぐに見返すことができます。たとえその美術館自体に足を運べなかったとしても、ネットで画像検索をかけて、その作品を鮮明に写した写真を、たった数秒で見つけることができます。

 

「一目見た」だけで、満足してしまう。
「もう二度と見れないかもしれない」という危機感、そしてそれによって生まれる「見る」ことへの意欲。
現代を生きる私たちは、そんなことを忘れてしまっているのかもしれません。

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今学期取っている『Design and Pattern II』という、Independent Study (模様の絵の本の制作のために自分で作った授業) の授業は、毎週水曜日、アドバイザーの教授と、短いミーティングをするようにしています。その時に1週間で描いた絵を見せて、これからどのように作品制作を進めていくか、という話をします。
先週、今まで描いた模様の絵を全て机に並べて、2人でお話しをしていた時。

 

 

 

“The ambiguity in your drawings – the separation between foreground and background, positive and negative spaces, as well as the collage of many geometric patterns – has a camouflaging effect. And because of that, the drawings reward the viewer who actually takes the time and ‘looks’ at your work.”
「あなたの絵の中の前景と背景や、ポジティブスペース(黒い部分)とネガティブスペース(白い部分)、様々な幾何学模様が組み合わさって、一眼では理解できないようなものになる。だからこそ、あなたの作品を時間をかけてしっかり見る人にこそ、価値を見出せる。」

 

 

 

描き手として私は、自分なりに自分が制作してきたものたちを理解していると思ってたけれど。
こんな風に、ただ当てもなくアートについて誰かと会話している瞬間にふと、新しい発見や気づきが生まれるのだなぁ、と。そして同時に、あの日、教授がクラスで言っていた一文。
“People don’t actually look at things anymore. We only glance.”
一つ一つ、目に飛び込んでくるもの。
たくさんのもの。
新しい何かに出会うことに、私達は慣れてしまったのでしょうか?
時間をかけてじっと眺め、観察し、考え、感じ、それをこの目に焼けつけようという姿勢。
私達には、どのくらい残っているのでしょうか?
もっともっと進化してゆくテクノロジーによって、いつかその様な姿勢は人々から完全になくなってしまうのでしょうか?
Screen Shot 2016-03-19 at 06.48.30“Egon Schiele” (2015)

 

もし、私たちが生きるこの今日が、
少しずつ、少しずつ、昔の形から変化しているものなのなら。
そしてその変化に、私たちは無意識的に慣れ、知らぬ間に「普通」のことになってしまっているのなら。
それを、ふと、気づかせてくれるなにかに自分のアートがなれたら。
「普通」の中に、美しさを見つけることを教えてくれるアートになれたら。
とっても素敵なことです。

 

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親の姿

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先日美術の授業で、こんな宿題が出されました。

 

“Make a full-length, life-size drawing of your parents from memory, using art materials of your choice”

”好きな画材を使って、実物大の両親の全身の絵を、記憶を元に描け”

 

両親の絵?実物大?それも記憶から?

私は人物を描くのは苦手だし、それも両親を描くなんてなんか照れくさいし、大きな作品だし、どうするべきか戸惑いました。

 

“Be creative. This is a chance to loosen up, have fun!”

”創造的になって。これは肩を緩める機会よ、楽しんで!”

授業では観察からの模写を行ってきたので、写実的では無くても良いから、もっと創造的な制作をすることが教授の目的のよう。

 

DSC07298

もう一つの宿題だった、RISDの自然史資料館での観察からの描写

 

週末、私は美術室に行って早速課題を始めました。

とりあえず2メートルほどの紙を用意して、定規で測って両親の大体の体の位置を書き込む。それからいよいよ二人の姿。

両親の絵を描いたのなんて、いつぶりだろう?母の日や父の日に小学校でカードを作ったりしましたが、そのときも人を描くのがあまり好きでない私は両親の姿ではなく、彼らが好きなものを描いた気が…。今回の課題は”記憶から”描くということで、目を瞑って両親を思い浮かべてみました。

 

みなさんは、両親を思い浮かべた時、どんな姿が思い浮かぶでしょうか?

彼らはどんな格好?何をしている?どんな表情?

 

この時思い浮かべた姿は、自分が持つ両親のイメージの象徴。ただの外見だけでなく、自分にとって両親とはどのような存在なのかを表していると思います。

更にそのイメージを絵にすることで、具体化されていく。絵は写真と違って、自分で表現したいものを自由に選べるから、現実はどうであれ”自分にとっての両親”をどう表すかが焦点になってくる。

規模が大きくで照れくさい、ちょっと面倒な課題だと思っていましたが、進めていくうちに”両親を記憶を元に描く”ことの奥深さに気がつかされ、楽しくなってきました。

 

鉛筆で下書きを始める。

 

私が思い浮かべたのは、週末二人で散歩に出かける父と母の姿。二人は数年前から週末は東京のあちこちを歩いて回っています。10kmの散歩なんて、短いぐらい。

母はいつも明るく、笑顔で楽しそうで、茶色いミニリュックを背負ってる。最近あまり着ていないけど、印象的な朱色のコートを持っていて、タートルネックとパンツスタイルが多い。

父は最近写真撮影に本格的になってきて、いつもカメラを持ち歩いている。黒いコートにサングラス、機能的な面を考えての格好。”母のお出かけに付き合わされてる”と、ちょっと文句も言いながら、きっと実際は自分もすごく楽しんでいる。

やっぱ20年以上も一緒に暮らしているだけあって、なんかお互いにバランスとって噛み合う二人。

そんな二人を囲む背景は何色だろう?散歩道にある色が良いけれど…。

水色は冷たいし、黄色はなんか不安定で明る過ぎる。ピンクはなんかもやもやするし、灰色や茶色は暗すぎる。

最後に選んだのは黄緑色。日を浴びる街路樹の色で、これから訪れる春を連想させる。そして何よりも、私にとっての両親の存在を上手く表した色だと思う。はっきりと言葉にできませんが、いろんなものが上手く混ざってできたちょうど良い色、というか。

アクリル絵の具で色をつけていく。シンプルな絵にしたので、はっきりと、べた塗りするように。大きい絵だから、同じ色をたくさん作るのが難しいし、細かいところを誤魔化したりできない。でも大きな筆での作業はなんか楽しい。”私にとって、父と母はどのような存在か?”を考えながら…。

 

1日かけて完成した作品はこちら。

 

DSC07293

本物はこの何倍も美男・美女です。

 

お父さん、お母さん、二人の姿公開してごめんなさい(笑)

私の中で、二人はこんな姿をしています。そして、これは他人に”お父さんとお母さん、どんな人?”と聞かれた時に私が表現したいと思う二人の姿でもあります。

 

”写真とは違う味があって良いですね”

(母からの感想)

絵って、とても主観的な表現方法で、具体的な言葉にしなくて良いからなんか良い。きっとこの絵を見て他人が解釈する”私の両親”は”私にとっての両親”とはまた違うだろうけれど、完璧に理解してもらえないところが、なんか自分の秘密を公にしながら同時に保てるようで、面白い。どんなに赤裸々に表現しても、失われない”自分だけのもの”がある。

”人を描くのはあまり好きで無いし、見たものをそのまま描くことはできるけど想像から描くのは苦手だ”と思っていた私ですが、今回この課題をきっかけにチャレンジしてみて、その楽しさに気がつくことができました。

みなさんも是非、”自分にとっての両親”を描いてみては?

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そこに残るもの。

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“Well, and I told myself at some point – let’s first try to forget everything we’ve learned, meaning everything about art history and all the trainings we’ve had and so forth. And try to come up with what’s left. And for me actually, what was left was pretty simple.
It was myself, my body, and the earth, and time.”
「今まで学んできたことを全て忘れた時に何が残るか。その問いかけに対する自分の答えはとてもシンプルだった。それは、自分自身、自分の身体、この地球、そして流れている時間だった。」

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昨晩行ったCharles Simondsというアーティストのトークで、彼は自分が制作活動に向き合う時の想いについてこう話していた。今まで学んできたことを全て忘れた時に何が残るのか。

 

学校から学び、
職場から学び、
人間関係、友人、家族から学び。
沢山の場面で、というか全ての場面で、私たちはなんらかの「学び」を手にし、何かを吸収している。
知識。知恵。教養。学び。学び。学び。
自分が思っているよりもずっと、私たちの毎日はその「学び」とかいうもので溢れているような気がする。
溢れかえって、そこら中に転がっているその「学び」とやら。
それらを全て忘れた時に何が残るのか。

 

今まで21年の人生で「学生」として生きて来た私は、学校という施設の中で勉学に励み、知識を吸収し、そのコミュニティーに属しながら人々と接し。それを元に自分の考えを構築してきた。そしてそれらから、自分のアイデンティティーのようなものを構築してきたのかもしれない。
高校生の時に芸術制作に初めて真剣に向き合うようになって、絵を描くことの楽しさやその動作が持つ不思議なパワーに気づいた。少しずつ、自分が好きなこと、ワクワクするもの、そういうことが積み重なるように自分の身体の中で塊のように固まっていって。
ブラウンで美術史を勉強し、自分でするものづくりではなく、他の芸術家の作品について学び始めた。その結果、歴史という観点から芸術に向き合うことがどういうことなのか、教えられる機会を得る。

 

こういう「今まで学んできたこと」。
それらから自分は何を得たのだろうか。逆に、それらによって自分は何を失ってきたのか。
「自分」というものが、どのように変化してきたのだろうか。
それらを自分の中から取り除いた場合、何が残るのだろう。

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きっとそこに残るのは、
何かを見た時、聴いた時、何かに触れた時、
「自分がこう考えた」ということではなくて、「自分がこう感じた」ことなのではないか、と。
感性というものは、生きてきた年月の中で自分が触れ合ってきたものがベースとなって出来上がるものなんじゃないか、という人もいるかもしれない。
私も確かにある程度はそうだと思う。や、というか大賛成。
でも、Charles Simondsが言っていたことをアートという観点からみると、なんだか違うものが見えて来るような気もする。

 

綺麗な星空を見た時に、
白い壁に掛かる一枚の絵を見た時に、
誰かから生まれる声と誰かが奏でる楽器の音が生み出す一つの曲を聴いた時に、
「あぁ綺麗だなぁ」と思うこと。「あぁ切ないなぁ」と思うこと。「あぁ好きだなぁ」と思うこと。感じること。

 

この感情は、なんだかとても純粋な気がする。
色んなしがらみや難しいことや頭の中をグルグルと巡るものから遠いところで、自分がとても動物的に反応している瞬間のような気がする。
自分の脳みそが「こうだ!」と主張してくる感じじゃなくて、なんというか、もっと自分の肌が何かを感じて、身体の中のなにかがグラグラと揺さぶられて、ギュギュッと何かが締め付けられるような気がする。
それはきっと、
たとえ「今まで学んできたこと」を忘れて、
「自分自身、自分の身体、この地球、そして流れている時間」だけが残ったとしても、私はずっと感じ続けるものなのではないだろうか。

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冬休み中、バキバキになった身体を労わるため整体に行った時に、そこの整体師の人が話していたことをふと思い出す。
「整体って仕事は、人間の身体のシンメトリーを探して保つために存在するものだと思うんです。でも長年この職を続けてきて、今考えると、人間のとってのシンメトリーって、綺麗に50:50ってわけじゃないかなって。ある時に気づいたんです。誰かにとっては48:52かもしれないし、55:45とかかもしれない。人それぞれなんですよね。そう気づいた時に、この仕事とか、人間そのものってすごく興味深いなって思ったんです。」

 

”シンメトリー”というものは、「平均のとれた、均等なこと」ということではなく、
「自分が心地良いと感じること」なのかもしれない。
「自分が美を感じること」なのかもしれない。
そしてその、人それぞれ、一人一人が感じる”シンメトリー”は、
自分が生まれ持った感性や、感覚や、才能や、身体そのものを象徴するものなのかもしれない。と。
きっとそれは、
すべてを自分の脳内から取り除いたとしても、残るものなのかもれしれない。と。
残って欲しいものだなぁ。と。

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Art of the Book

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こんにちは、一昨日無事帰国を致しました、小高です。
さてさて。今日は、先日の記事に書いた通り、「Art of the Book (製本)」の授業の最終課題で制作した一冊の本について、書きたいと思ってます。
一学期にかけて、凸版印刷機、Adobe InDesignなどを使ってパンフレットやポスターのデザインをしたり、パンフレットスティッチング、アコーディオン折りからハードカバーまで様々な種類の本の作り方を学んだり。今回の最終課題は、学期中に習得した技術を使って、自分の作りたい本を作る、という。まぁとっても具体性にかけたものでして。クラスの中には、自分で詩を書いてそれに合わせたイラストと共に10ページくらいの手のひらサイズの本を作った人もいれば、ボンベイ出身のインド人の子はボンベイにあるアールデコ建築のイラストとその地図を本にしたものを作っていました。
私は、といいますと、今まで趣味として描き続けていた模様の絵で、一冊の本をつくることに。
しかし今まで描いてきた絵のモチーフに一貫性がない… ということで、新しい絵を描き始めることに。
11月くらいから描き始めた、『Artist Portrait Series』と題した模様の絵たち。私の制作活動にインスピレーションを与えてくれる芸術家たちのポートレートを描きました。14枚。その中には、ル・コルビュジエ、パウル・クレー、アルベルト・ジャコメッティ、白井晟一などなど。
今日の記事は(誰に需要があるかわかりませんが。笑)写真たっぷりで、一冊の本ができるまでをご紹介したいと思っています。

・・・・・

 

まず。ポートレートのモチーフとなる写真を探して、その絵の大きさを決めます。
そこから、顔や体の輪郭を黒ペンで描く。
影やシワなどの線を輪郭の中に描き入れて、背景のモチーフとなる写真を元にそれも描きます。
背景は、その芸術家の作品を抽象的に描く。模様は、密度が高くて濃い目の模様を影の部分に、密度が低くて余白が目立つ模様を明るい部分に。人間の立体感を出せるように、描いていきます。
14枚の絵が描き終わったら、それをまずスキャンして、白黒のコントラストをしっかりさせます。
それから、Adobe InDesignを使って、ページの上のどのようにレイアウトしていくかを考えます。
本の寸法を決めてから、フォントの種類や大きさ、一字一字の感覚、絵の配置、余白の取り方、絵の順番などを決めていきます。
これらの作業は全てパソコン上で。
作業途中で、時々プリントアウトしてみたりして、気になった細かい部分を修正。
1ル・コルビュジェの絵。と、エゴン・シーレの絵。
IMG_6683InDesignのファイル
通常のインクジェットプリンターを使って印刷すると、黒の部分がうっすらグレーがかってしまったり、絵の雰囲気がうまく表現できないので、今回は凸版印刷機を使って全ての絵と文字を刷ることに。
そのためには、まず、製版用の板を作らなくていけません。
スキャンした絵をパソコン上でいじって、ネガにします。
ポリマー版画は、絵柄を透明なフィルム (ネガ) に移して、版と重ねて太陽の光を当てることで版を作る「光の版画」といわれています。そのフィルムの透明な部分は重ねられたポリマー板に光をそのまま通し、黒い部分は光を遮断するので、その結果、平版と凹版を作ることができます。つまり、私の絵でいうと、透明な部分はペンで描きいれた黒い部分、フィルムの黒い部分は、余白ということになります。
絵柄が描いてあるフィルムとポリマー板を切って、それを露光室へ。次は露光機を使います。
2ポリマープレートとフィルムを切る。
3露光室。
露光室には、シルクスクリーン用の機材が。
ポリマー板を作るには、上の写真の右側にある露光機を使って、版に原稿イメージを焼き付けなくてはいけません。
蓋のような物を開けると、UVライトがバーッと敷きつめられていて、そこにポリマーやフィルムを置いて閉じる。しっかり蓋を固定して、空気を抜いて真空状態にします。
まず、フィルムのサイズに合わせて切ったポリマーを、前露光。30秒です。
それから、フィルムを置いて、前露光していない面をフィルムに向けて、2つを重ねて置きます。
通常は5分ほどの露光なのですが、フィルムのディテールが細かいので、今回は8分。

4

8分の露光が終わったポリマーには、まだなにも凹凸はできません。
光にあててよーく見ると、うっすら絵が映し出されているくらい。
これから、水を張ったトレイの中でそのプレートを、たわしみたいなものでゴシゴシします。ずーっと。ほんとにずーっと。エンドレス。まじでおわんない。腕いたいし肩いたいし腰痛くなります。
そうすると、光が当たっていなかった部分 (フィルムの黒いところ)から、白いヌメヌメしたものが浮かび上がってきて、それをブラシでひたすらゴシゴシ。ヌメヌメがなくなって、出っ張ってる部分がくっきり見えるようになるまで、10分くらいかかります。洗い終わったらキッチンペーパーで水気を取って、ドライヤーで乾かして、プレートを固めるために8分の後露光をします。この手順を一つずつの板にひたすらリピート。
出来上がったポリマー版の裏面に粘着シートを貼って、プレート作りは完成。(まだまだ続きますヨ。)
5たわしみたいなブラシ。これでひたすらゴシゴシ。と、白い部分が浮き上がってきたポリマー板。
6出来上がったポリマー板の一部。粘着シートを貼った後。全ての文字のためにもポリマー版を作りました (白目)

 

これらの板を使って、やっと凸版印刷機で各ページを刷り始めます。
本を作るには、一枚の紙を半分に折ってそれを重ねていくので、左側のデザインと右側のデザインが同じ見開きページとは限りません。そしてその裏側も同様。つまり、見開きの左側が”LE CORBUSIER”と絵のタイトル、右側がコルビュジェの絵になるように作りたいとしても、その2ページは同じ紙に刷られるわけではないということです。説明ちゃんとできてるかな。笑
凸版印刷機は、学校のBook Arts StudioにあるVandercookというかなり古い機械を使いました。
下の写真を見るとわかりやすいと思いますが、
ポリマー板を厚みのある台に貼って(粘着シートを貼ったのはこのため)、右側の鉄の台に固定します。
真ん中にある筒状のものはインク用で、まずこの筒を貼られたポリマー版の上に転がして板にインクをつけます。
それで、左側にある台上で紙を固定する。手前にある取っ手を時計回りに回すと、紙が中心分にあるローラーの中で板に押し付けられ、一回転したローラーから絵が刷られた紙が出てくる、というわけです。
今回は、かなり厚みのあるしっかりした紙を使ったので、3つの紙束に分けることに。
本当言葉で説明するの難し。。
これが、本当に本当に一番大変な作業。
刷ってみると、すこーしだけ絵が傾いていたり、表面と裏面がずれていたり、絵の横に小さな黒い点が付いてしまったり。
ポリマー版をセットアップする方が、実際に紙を入れて刷るよりも全然時間がかかります。
刷る作業できっと丸3日くらいはかかりました。
ここでも、右肩が筋肉痛になる、というオチ。
8Vandercook (photo)
7カバーのために、麻の生地に剃った時の固定されたプレート。

 

刷り終わった紙を乾かして、半分に折って、製本するために中心部に穴を開けていきます。
“Zig”というものを作り、それを使って一枚ずつ、一枚ずつ、縫うための穴を。開けてゆくのデス。
私の本は、カバーを除いて全部で36ページだったので、計8枚の紙で一冊ができます。
それに加え、一つずつの絵の前に薄い透明な紙を入れることにしたので、それも別で穴を開けなくてはいけませんでした。
穴を開け終わったら、糸にワックスをつけて、縫い縫いします。
透明の紙がかなり薄かったので、縫っている途中で破れてしまったり、白い紙にすこし汚れが付いてしまったり…。
「アァーーーーーもうっっっ!!!!」と全て投げ出したくなる瞬間が山ほどありました。
全てを縫い終わって、その後は、背の部分にうすーくノリをコーティングしていきます。
そうしないと、本を開けた時にページとページの間に隙間ができてしまうのですねぇ。
9Zigを使って穴を開ける。
10縫い縫い。外側にあるテープみたいなものは、最終的にハードカバーに固定する時に必要になります。

 

これから、ハードカバーと箱づくり。
最終課題として、ハードカバーも箱を作るのは必要条件ではなかったのですが、私的に「どうせ作るならオールイン、150%の労力を費やしてやるぜ。」と思い、その結果。
ブックボードという厚紙を切って、
布で固定し、
選んできた紙と、模様を刷った布を貼って、
折って。折って。貼って。広げて。
(もうこの段階になってくると、制作に集中しすぎていて写真撮るの忘れてました。ごめんなさい。笑)
11ハードカバー作り。
12箱作り。

 

そ、そして。。。
やっと、、、完成。
徹夜明けの評論は、正直何を言われたか覚えていませんが。
「これを2週間で作ろうと試みたかのはクレイジーだ。」と教授とクラスメートに言われたことははっきり覚えています。
・・・・・

 

一冊の本を、ゼロの状態から作る。
そのプロセスの中で、ものすごい沢山のことを考えたり決めたり、作ったり。しなくてはいけない。
絵、タイポグラフィー、文章、レイアウト、版画、製本。
これらの分野とスキルが全て上手く組み合わさった時に、やっと1冊の本ができる。
逆に言えば、本の1mmだけずれて刷ってしまった絵があったとしたら、それだけで100%の本ではなくなってしまう。ということ。そんなことを、今回の本作りで学びました。
“Are you happy with the final result?”
そう教授に、評論で聞かれました。
もちろん。答えは、
“No.”
自分の作品に誇りを持っていないわけではなく、嫌いなわけでもなく。
ただ、「もう少しあそこをああできたらな」とか「ここの部分が少し違和感」とか。小さな小さなディテールでも、気になる箇所は複数あります。
今回は、初めての経験が沢山で。
本当に色々なことを学んだ一学期でした。
これを生かして、来学期も同じ本を100%の状態に仕上げるために、また時間を費やしたいと思っています。
そしてなによりも。
どんなに締め切りまで時間がなくて焦っていても、
どんなに徹夜が続いても、
どんなにポリマー版や凸版印刷機との奮闘で身体中が筋肉痛になっても、
『ものづくり』は本当に、本当に、楽しい。
そう気付けた。そんな、一冊の本ができるまでのプロセス。
・・・・・

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近状報告。と、アートの愚痴。

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どうも、小高です。
1日遅れで失礼いたします。
さてさて。
今週ですが、まぁいつも通りの一週間という感じ。
授業に行って、課題をやって、読書をして。みたいな。
現在、Art of the Bookというスタジオクラスで、本を作っています。
私は、ここ数年趣味として描いてきた模様の絵で一冊の本を作りたいと思っています。今までは、描きたいものを見つけてただただ何も考えず描いていたのですが、そうした結果、絵のモチーフに一貫性がない….これでは本はできないぞ。むむむ。という感じに。
結局、建築家ル・コルビュジエをモチーフにした模様付きの絵を描いたことがあったので、それを元に『アーティストポートレートシリーズ』を描き始めることに。私の好きな芸術家のポートレートを、自分の模様を絡ませて描いて。今の所9枚完成。できればあと4週間で、もう11枚終わらせたいと思っています。
本が出来上がったら、ブログにも載せますね。
Screen Shot 2015-11-14 at 14.45.04
今、ラテンアメリカンアートの授業で、コンセプチュアルアートについて学んでいます。
日本語では概念芸術とも呼ばれるコンセプチュアルアート。は、1960年代から70年代まで世界的に盛んだったアートスタイル。
どんなアートスタイルだったのか?というのは、画家ソル・ルウィットが書いた「コンセプチュアル・アート宣言」の中で以下のように説明されている。

 

In conceptual art the idea or concept is the most important aspect of the work. When an artist uses a conceptual form of art, it means that all of the planning and decisions are made beforehand and the execution is a perfunctory affair. The idea becomes a machine that makes the art.
コンセプチュアル・アートにおいては、アイデアまたはコンセプトがもっとも重要である。作者がコンセプチュアルな芸術形式を用いたとき、それはプランニングや決定がすべて前もってなされているということであり、制作行為に意味はない。アイデアが芸術の作り手となる。
つまり、アートを「オブジェクト(形のある物体)」として見るのではなく、「プラクティス(経験や習慣)」として考える。もともとは、マルセルデュシャンのあの有名な『泉』(1917年)がコンセプチュアルアートの始まりだとも言われています。
『芸術』と聞くと、少し敷居が高いように感じてしまったり、毎日の生活の中でとても身近なものと考え難い!という人はいると思います。そもそも美術館という場所自体が、日常的!!って感じではないからかもしれないですね。静かだし、高価なアート作品がポンポンと飾ってあるし。私の中で美術館に行くことは教会に行くことに少し似ています。静かで、なんか瞑想的な空間?っていうのかな。
美術館やギャラリーという、アートワールドの権力者。そして競売会社。
これらの組織の主観が、『Good Art』『Bad Art』を決める。
その決断によって、展覧会に出品される作品、そして作品の”価値”が決まる。
でもそれってどうなんでしょう?彼らが『Bad』と思った作品が、実は人々に好かれる作品となるかもしれない。そしてこれらの組織のバリュージャッジメントによって、市民が思う『Good Art』『Bad Art』も知らぬ間にその枠組みにはめ込まれていってしまうかもしれない。
そんなアート界のヒレラルキーに歯向かってしまおうぜ、と出てきたのがコンセプチュアルアーティスト。最終的な作品の形や美しさではなく、それまでのプロセスから一人一人の感性くすぐるような”なにか”を生み出すことに全力を尽くした芸術家達。
『Art』と『Life』の間、
『Artist』と『Viewer』の間、
『Artwork』と『Viewer』の間にある隔たりを取り除く。
0202『踏まれるための絵画』/ オノヨーコ
例えば、オノヨーコの『踏まれるための絵画』。
これは、オノの初期の作品で、キャンバスの切れ端を地面に置いて、その上を鑑賞者歩いて足跡をつけて感性するもの。作品を創りあげるというプロセスの中に、あなたもわたしも参加できる。そのプロセスをこの目で見ることができる。そして、アート作品とは壁に飾られた手の届かないものである必要ではなく、地面に置かれ、汚れた不揃いな布のかけらで、しかも踏みつけられることによって完成とすることも有り得る、ということ。

・・・・・

たくさんの人が考える、アートの敷居の高さがなくなれば、もっとたくさんの人が美術館やギャラリーやビエンナーレ/トリエンナーレに足を運んでくれるのでは?と思うと、なかなか嬉しい変化のような気はします。
でも、コンセプチュアルアートを勉強してていつも思うことは、「アートは意味を持たなくてはいけないのか?」「アーティストは伝えたいメッセージを持ってなくてはいけないのか?」ということ。
作品のアイディアやコンセプトばかりを重視する結果、「ただただ美しい」ものが現代の芸術界から減っていってしまっているような気がするのです。
フェミニズム、LGBT、戦争、消費者運動、お金、いじめ。
このような、とても政治的な絵画を本当に最近よく目にする。
それを、うまく『美』と絡ませている作品もあれば、これ見よがしな、なんともいえない作品も。

アーティストは活動家なのですか?
“メッセージ”は作品の価値をどう変えてしまうものなのでしょうか?
なんだか最近のアートは、どこへ向かってるのか、、、、。

美しいものを、ただ美しいと言え、
その美しさによって評価される芸術界は、この先戻ってくるのでしょうか…..?

 

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My Forever Hero

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こんにちは。小高です。
先ほどふと「ブラ熊も結成して結構経ったな〜」なんて考えていたら、まさか今日の投稿が141件目のブログ記事でした。すごい。恐ろしい。知らぬ間にもう直ぐ150です。笑
さてさて。今回は何について書きましょうか。
最近書いた記事が仕事だのインターンだのと真面目な内容なので、今回は写真多めで明るい感じにしましょう!ということで、私の一番好きなアーティストについて書いてみます。誰得なのかはわかりませんが、美術・建築に興味がある方には需要があるかも…?
・・・・・
Portrait Le Corbusier丸メガネと蝶ネクタイがトレードマーク
彼の名は、ル・コルビュジエ(Le Corbusier) 。本名シャルル・エドゥワール・ジャンヌレ。
スイス生まれでフランスで活躍した建築家です。
ミース・ファン・デル・ローエ、フランク・ロイド・ライトと共に「近代建築の三代巨匠」として言われている彼。
お父さんは時計職人で、小さい頃から手先を使った作業が好きだったらしく、装飾美術学校で勉強した後に、建築を志し始めます。彼の作品は世界中にあり、ヨーロッパ、インド、ブラジル、そしてもちろん日本にもあります。
私が初めてコルビュジエについて知ったのは小学校1年生の時です。
実家に彼の椅子『Lounge Chair, LC4』があり、小学生の私に母が「この椅子はルコルビュジエっていうとっても素敵な建築家の人が作った作品なのよ」と教えてくれたのがきっかけ。
ちょうど同じ頃に、母の友人で建築家をしていた方に出会い、その人が作っていた模型や描いていた平面図を見て感動し、「私も建築家になりたい!」と言い出し…。小さいながらですが、その頃に建築に対する興味が生まれました。
PD_8100_MAINカッシーナ社から発売された『Lounge Chair, LC4』 (http://www.dwr.com/product/lc4-chaise-lounge-cowhide.do)
もっとこの人について知りたい!と思った私は、小学校の卒業研究でコルビュジエについてリサーチをしたり。
中学生になってから、彼の展覧会に行ったり。唯一アメリカにあるハーバード視聴覚センターに足を運んだりしました。
そして今、コルビュジエについて初めて教わってから16年経って、大学で建築史について学び、今現在「Modern Architecture (近代建築) 」という授業を取っています。こう思うと、なんだか不思議ですね。笑
・・・・・
ということで、わたしが好きな彼の作品を紹介。
・サヴォア邸
20世紀の住宅の最高作品の一つ。コルビュジエが開発した「近代建築の五原則」のすべて = ⑴ピロティ、⑵屋上庭園、⑶自由な平面、⑷独立骨組みによる水平連続窓、⑸自由な立面が、実現されています。もとは別荘としての一般住宅でした。
反則的な格好良さ!
5886291377_0ea6a39216https://www.flickr.com/photos/88017382@N00/5886291377
le-corbusier-villa-savoye-entreehttp://www.specialmode.fr/deco/villa-savoye/
villa-savoye-2_pascal-lemac3aetre-high-res http://www.hotelswelove.com/villa-savoy-le-corbusiers-weekender/

Villa Savoye Courtyardhttp://www.architectural-review.com/essays/the-big-rethink-part-2-farewell-to-modernism-and-modernity-too/8625733.article

0094https://www.bluffton.edu/~sullivanm/france/poissy/savoye/corbu9.html
0069https://www.bluffton.edu/~sullivanm/france/poissy/savoye/corbu9.html
9a3fbfc6あの日本を代表する写真家、杉本博司の「建築」シリーズでも登場しています。 (http://blog.livedoor.jp/ee_ie/archives/50931247.html)

 

・ロンシャン礼拝堂
1955年に竣工。変わった形の屋根は蟹の甲羅をイメージして作ったのだとか。
なんだか空に浮かぶ船みたいな形。南側入口の扉は、コルビュジエの下絵をもとに七宝焼きで仕上げられたもの。
中は不揃いのステンドグラスの窓。そこから照らし出される光が、内部を幻想的に彩ります。
le-corbusier-chapelle-de-Ronchamp--2-以下全て: http://www.lankaart.org/article-le-corbusier-chapelle-notre-dame-du-haut-de-ronchamp-115717674.html

 

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・カップマルタンの休憩小屋
1951年にル・コルビュジエが妻・イヴォンヌのために南フランスに建てた3・66メートル四方の小さな小屋です。「建築とは何か?」を問い続けた彼が、最後に到達したのがこの最小限の小さな家。コンパクトな室内で快適に過ごせるように、室内の家具の配置などにも配慮されています。来客時にベッドを隠せる間仕切りなどもあるらしい。建築家を志す前に画家を夢見ていたコルビュジエは、ここで毎日午前中は絵を描き、午後から建築の仕事をしていたそうです。そして1965年の夏、この小屋から海へと向かったコルビュジエは、そのままこの小屋に戻ることなく亡くなってしまいます。
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コルビュジエ自身が、家中の壁に絵を描いていました。 (http://www.wsj.com/articles/SB10001424052702304066504576342021839983868)

 

・ちなみに唯一日本にあるコルビュジエ建築は、上野公園の中にある西洋美術館
国立西洋美術館は、印象派など19世紀から20世紀前半の絵画・彫刻を中心とする松方コレクションを基として、1959年に設立されました。本館の設計はコルビュジエの弟子である前川國男・坂倉準三・吉阪隆正が実施設計・監理に協力して完成しました。現在世界遺産候補にも上がっています!ちなみに近代建築好きな方は、ぜひ上野公園に訪れるべき!西洋美術館だけではなく、ニューヨークにあるMOMAを設計した谷口吉生の東京国立博物館・法隆寺宝物館や、前川國男設計の東京文化会館などもあります。
86dcc7648902d6b203852df64c6feb50http://www.architravel.com/architravel/building/the-national-museum-of-western-art/
nmwa_tokyo_2-573x430https://www.pinterest.com/christina8809/national-museum-of-western-art/

B73YahzIAAAkke2https://www.pinterest.com/christina8809/national-museum-of-western-art/
コルビュジエはこのほかにも都市開発計画や、家具のデザインをしたり、絵を描いたりしていました。

 

・・・・・

 

 

なぜコルビュジエが好きなのか?
そう言われるとうまく言葉で説明できないのですが… 私はとにかく彼の美的センスが凄い。と思うから。ですかね。
近代建築といえば、バウハウス。
モンドリアンやミースのような、カクカクした四角いデザインでお馴染みのバウハウスですが…
コルビュジエは彼にしかできない色や形の組み合わせ方で、最小限の装飾を使って、ミニマルで清潔感がある、洗練されたデザインをしています。
機械的でありながら、人間くささや暖かにも感じる。
スクリーンショット 2015-10-15 23.12.50左: ピエト・モンドリアンの絵 // 右: ミース・ファン・デル・ローエの作品
http://lifeclearing.blogspot.com/2014/10/blog-post_2.html // http://rogeliocasado.blogspot.com/2014_07_01_archive.html
色のチョイスは本当に素敵。自然的で、絶妙。そうなんですよ、絶妙な色。
この前RISDに行っている友達と、「きっと彼じゃない人間が同じカラーパレットを使って色を描いたらただの泥の塊みたいになるよね〜」みたいな話をしました。コルビュジエにしか使いこなせない、独特の組み合わせ。
そして、皆さんも見て気づいたかもしれませんが、現団に建てられたと言われても何も不自然ではないくらいモダンなデザイン。
当時の最先端のものが、100年弱後でも受け入れられるくらい。ほんと、すごいと思います。
コルビュジエの建築に対する哲学や魂のようなものは、現代建築にも受け継がれている、と私は信じています。
建築物だけでなく、彼のデザインした家具も、彼の風貌も、ファッションも。
とにかく全てにセンスを感じる。
きっと彼は、とてもこだわりが強い人間だったんだなーと、つくづく思うし、そうやって自分を突き通している彼は、たった一人、私が本当に心から尊敬する人間です。

 

生前の彼の言葉にこんなものがあります。
もっとも大きな喜びはモノをつくる喜びだ。
この喜びを追い続けたコルビュジエの人生。
決して順風満帆とはいえなくても、自分の信念をつらぬき通した芸術家 ル・コルビュジエ。その作品を“光”で満たそうとし続けた彼の人生は、常に率直な愛に溢れていたのではないでしょうか?
・・・・・
【追伸】
夏休み中に、ネットである記事を見つけました。
「トーマス・マイヤーが緊急来日!日本のモダニズム建築を救え!」と題されたCasa Brutusの記事。
トーマス・マイヤーは、ファッションブランドのボッテガ・ヴェネタのクリエイティブディレクターで、幼少期にお父さんと東京に来た時から日本の近代建築のファンだそう。都内の近代建築の代表であるホテル・オークラ本館の建て替えが行われると聞いて、"日本の近代建築の良さを、日本人も世界中の人々も知るべきだ!"と来日した時の様子が書かれています。
2020年の東京オリンピックに向けて、都市開発がさらに進み、古びたものがどんどん壊されていく。
何千年の歴史があるお寺や神社、博物館などの「歴史的建築物」は大切に保護される中、100年の歴史しか(?)ない近代建築の重要性はあまり語られていないようです。
なんだか悲しいですね…。
Casa BRUTUS 記事: http://casabrutus.com/special/japanese-modern-architecture/
スクリーンショット 2015-10-16 0.17.58
https://www.youtube.com/watch?time_continue=7&v=VvmFEhma-3w 

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